2017年10月25日水曜日

        福島地裁いわき支部「福島原発避難者訴訟」を傍聴して(10月11日)
    
    ふるさとを返せ 人間の尊厳を取り戻す闘い
                   
                     大石 京子(元全損保三井住友支部)
                     内藤 正則



10月11日、福島地裁いわき支部で行われた「福島原発避難者訴訟第26回裁判結審」を傍聴する予定で、5人で福島へ向かいました。

 午前中は決起集会で原告代表挨拶では「ふるさと喪失」の概念は裁判史上初で認めさせていきたい」と発言がありました。又、「全国公害被害者総行動」からの挨拶では「水俣、大気汚染、アスベスト、薬害・・等の戦いをしているが、最大の公害は原発事故である。国策で引き起こされたのに小さく見せ切り捨てる。そして分断する。国民をだますその手口は変わらない。(私は水俣病でまだ闘っている人がいるんだということを知らなかったので驚きました)

 集会後は午後の結審に向けて裁判所までデモ行進しました。しかし一般傍聴券は傍聴希望者にたいし僅か15枚で競争率は10倍以上。(幸運にも私は抽選に当選。内藤氏に譲りました)。傍聴出来ない方々は、弁護団からの報告集会に参加し今までの説明を受けました。「訴訟初期には、原告全世帯の審問を工夫して行い、裁判官に何度も要求し3回に分けて現場検証が行われた事が流れを変えていった。
 前橋地裁、千葉地裁、そして昨日判決の出た福島地裁と判決が続いた。補償額については納得できないが、徐々に国と東電の責任を認め補償地域や額を僅かながら広げている。福島県知事や各政党にも申し入れを行い一歩一歩踏み出してきた。この闘いは人間の尊厳を取り戻し国策を変えさせる壮大な闘いでありであり、世論を味方に頑張っていこう」と語られました。若い弁護士さん達は裁判を有利にするため資料集めに奔走し、ベテランの弁護士さん達の奮闘などを聞いて感動しました。
 
 翌日、楢葉町・宝鏡寺早川住職を訪ねました。最初に「ここまで来てくれて話を聞いてくれるのは嬉しいが、何から話せば良いですか」と言われた。「避難解除になり戻ってきたのは車の運転できる年寄りだけ。そのうちにふるさとは喪失する。もう元には戻らない。今後の課題は溶け落ちた燃料を取り出せるのか?取り出せても何処に?先々どうするのか?とてつもない困難が残されている。国は最終処分場の説明会について福島県を除いた各地で行うのはアリバイ作り。人が戻ってこない、いずれ人が住まなくなる被災地が最終処分場になるしか解決しないことを政府・東電は判っているのだ。
 国と東電は儲けることだけを目的に危険な原発をやってきた。(原発設置基準は「近くに大都市が無い。原発所在地の人工は少ない」であり危険な事業だったのだ)
 儲からない最終処分場の管理を何万年もの管理が出来るのか?」・・と語る住職の話は重く、私は「こんな状態で福島の問題は終わったとして、再稼働なんて許せないと思いました。

 次に、希望の牧場へ行き、牧場主の吉沢氏の話を聞きました。希望の牧場は原発事故で放置された牛を預かり飼育しています。牛はパイナップルの皮を食べていました。牧場の至る所に汚染度の入ったフレコンパックが積み上げられていました。牧場には未だ300頭の牛がいる。山や林の除染は手つかずの状況。周りだけは除染?してもすぐまた汚染される。お金をかけて除染するのは国のアリバイ作りで無意味。避難解除になったが帰還した人は僅か1%。行政町役場は「町残し}に力を入れ予算をつぎ込んでいるが、そのうちふるさとは消滅する。牧場の敷地内に立っている送電鉄塔は電気を関東へ送っている。福島の犠牲の上に東京の豊かな暮らしは成り立っている。これからどうなるのか?どうしたら良いのか?世界中の英知を集めて原発の問題を解決しなければならないと思いました。


 車で走っていると除染作業で集めた黒のフレコンパックあちこちに積み上げられていました。それを白い壁を作って見えなくしているところもちらほら。草が生えているフレコンパックも。フレコンパックの無いところにはソーラーパネルが次々に作られていました。皆さん是非福島の被災地を見てください。

                     (大石 京子)

                                             




 私(内藤 正則)は4人の仲間と、10月11に結審(判決は来年3月22日)になる 「福島原発避難者訴訟」の福島地裁いわき支部での傍聴、翌日には楢葉・宝鏡寺の早川住職(いわき市住民訴訟原告団長)と浪江で放射能を浴び売れない牛を飼っている「希望の牧場」の吉沢氏に面談、現地の状況を伺った。

 裁判では、被災者が嗚咽をこらえ声を震わせながら7年になる避難生活の苦しさを陳述している姿に傍聴者はもらい泣きをした。
(原告・金井 直子さんの陳述の抜粋より~1年目は無我夢中で、本当に着の身着のまま逃げた1年目、そして2年目は不安と葛藤、3年目は先が見えなくて、4年目になったらもういい加減にして欲しい位に限界を超える、その心境の中でも生きて行かなければならなくて、5年目から今日に至っては絶望の中でもやっぱり生きて行かなければならないから何とか歯を食いしばっている)避難者でないと判らない苦しさが判り、同時にこの人たちを無視する現在の自公政権に怒りが増しました。
 
 翌日の楢葉、浪江の二人の話で共通していたのは「現地はいずれ無人になり使用済み燃料の捨て場所になる。現在は被災者支援の闘いだが、今後の大きな課題は、解体できない原発、解体出来ても燃え続ける燃料や、増え続ける使用済み核燃料と、満タンになっている汚染水の安全な管理をほぼ永久に行うことだ。原発はトイレの無いマンションです」
膨大な経費(税金)が今後もかかる。今は6~7000人が従事して必死に作業を続けている。(吉沢氏は、今、汚染水は海に垂れ流しの状況になっているでしょう。先日の台風では大量の汚染水が海に大量に流れたと言っていました)
                                   (内藤 正則)



   

2017年8月20日日曜日

新安保法制法の違憲判決を強く求めます
~損保人として、市民として、親として「陳述書」を提出
                  
                           栗原 伸夫

 集団的自衛権の行使等を容認する2015年9月19日強行採決の新安保法制法は違憲であり、その制定に係る内閣及び国会の行為も違憲である。平和的生存権、人格権及び憲法改正・決定権を侵害された原告らの精神的苦痛は甚大である。よって、原告らは、被告国に対して、国家賠償法1条1項に基づく国家賠償請求として、それぞれ金10万円の損害金の支払いを求める。
 私は「安保法制違憲訴訟埼玉の会」の原告438名のひとりとして、2016年6月20日のさいたま地裁提訴に参加しました。口頭弁論も第6回(9月27日)第7回(12月13日)と進み、私もこのたび裁判所宛ての陳述書を弁護団に提出いたしました。
安保法制違憲訴訟は現在、全国で20の裁判所で、原告6,296名、弁護団1,614名により審理が進められています。平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を定める現憲法のもとで、三権分立の一翼を担う司法・裁判所が、内閣、国会の暴走を止める良識ある判断をされるよう強く求めるものでありす。

       【陳述書】
1 生い立ちと略歴
 私は、1939(昭和14)年5月10日に川越市で生まれました。地元の県立高校を卒業し、東京都内の大学の法学部に進学しました。1962(昭和37)年3月に大学を卒業し、損害保険会社に就職し、2002(平成13)年までの38年間、勤務しました。
損害保険会社での仕事は、主として、事故が発生した際の損害額の調査・確認と保険金の支払いを行う「損害調査部門」を担当してきました。若い時は転勤も多く、後半の20年ほどは川越市から通勤しました。
全日本損害保険労働組合にも加入し、専従も経験しました。
 定年退職後は、平和や損害保険の民主的な発展を願う任意団体の「世話人」や「損保9条の会」など  どの活動をしています。
なお、現在夫婦二人暮らしですが、長女、次女と小学校3年生の男子の孫がおります。

2 保険会社での働き甲斐、生きがい
 私は、38年間の会社生活の中で「補償機能の発揮、真の被害者救済を通して市民の安全と安心
っていく」という損害保険産業の持つ社会的な役割に誇りを持ち、社会貢献の喜びを生きがいとしまいりました。
たとえば、2011年3月11日の東日本大震災における補償の仕事です。この災害では多くの牲者とともに家屋や家財にも甚大な損害が発生しました。地震保険の損害調査では保険会社の社員が場に赴き、お客さまから直にお話を聞きながら保険金支払いの手続きを行いました。地震保険の保金では生活再建の一助にしかなりませんが、社員は契約者からの感謝の言葉に涙し、わたしたち、ひとりひとりが損害保険の持つ社会的責任と役割を、あらためて実感したのです。
また、損害保険の大半を占める自動車保険では、車両修理費の早期支払い、第3者に損害を与えた場合には被害者との話し合いの進め方をいち早く契約者に伝えて安心を、被害者には損害の回復と傷害のある場合には、一日でも早い社会復帰のためのサポートを行うことが、損害調査を担当する社員の最大の責務ですが、私は前述のように、この仕事で会社生活の大半を送ってまいりました。そして、お客様からの「ありがとう」のひと言で、幸せを感じ、明日への意欲を醸成してきたのです。

3 損害保険の本質は「平和産業」
日本損害保険協会は、その行動規範で「市民の安全・安心な生活と安定した事業活動のお手伝が、損害保険の社会的な使命である」と定めています。損害保険は「大数の法則」に基づいて多くの契約者からの保険料により、万が一の過失や災害によって生じた損害を補償するもので、「一人は万人のたに、万人は一人のために」という相互扶助の精神こそが原点です。私たちの誇りや生きがいは、そうした保険の本質を具現化するなかで生まれるものです。
そして、保険の本質は、平和が大前提です。すべての損害保険の普通保険約款には「戦争、外国の武力行使、革命、政権奪取、内乱、武装反乱、その他これらに類似の事変または暴動」により生じた損害は免責(注・保険金支払いの対象とならない)と規定されています。つまり、「戦争状態」のもとでは保険金は支払われませんし、ましてや新らたに保険に加入する人もいないでしょうから「商売」そのものが成り立ちません。損害保険産業は、本来「平和産業」なのです。

4 「PKO保険」と社員の精神的な苦痛
新安保法制(戦争法)成立以前にも、すでに、その序曲は奏でられていました。
その一つに国策による「PKO」保険(国連平和維持活動傷害保険―自衛隊等の固有危険補償特約付海外旅行傷害保険)の発売があります。
2004年1月、イラク復興特別措置法に基づく自衛隊のイラク派遣の際、損害保険業界は防衛庁共済組合を契約者、自衛隊員を被保険者とする「PKO」保険を発売しました。通常では補償されい「紛争、武力行使、政権奪取、内乱、そのた類似の事変に伴う死亡・後遺症障害を補償する傷害保険」です。
一般人ではとても引受けのできない「戦闘地域」に適用、保険料も通常の3分の1と驚くほどの格安(死亡保険金1億円の場合、月額保険料15610円)に設計されたものです。自衛隊員の死亡に対する弔慰金、国家公務員災害補償などの公的補償に加えて民間の保険も手厚くすることで後顧の憂いなく任務に従事できるよう、隊員及びその家族の「戦争リスクへの不安」を糊塗しようとする政府の思惑と追従する損害保険業界の姿勢が見て取れます。保険会社が国策に取り込まれている姿です。
新安全法制によってPKO部隊に、海外での殺し、殺されるという武力行使を容認した憲法違反の任務「駆けつけ警護」と「共同防護」が付与されたことにより、隊員が人身傷害に遭遇する危険が格段に高まりました。同時にその業務に関わるわたしたち損保社員の苦悩と苦痛もまた、一層重く、大きくなりました。 たとえば、南スーダン派遣自衛隊員への「PKO」保険の募集は、営業社員が代理店(自衛隊の別働体)に同行するなどして、隊員、家族向け説明会の中で行いますが、戦闘 地域に派遣される第11次隊員に「万が一のための保険」などと言えるのか、不安な眼差しで見つめる家族に、さらなる心配を増幅することにならないか、営業社員の「苦悩・苦痛」の深さはとても耐えられものではありません。
また、「PKO」保険金の支払いを行う際には、防衛省や現地と連絡を取りながら事故の状況などを詳しく調査しますが、事故原因の理不尽さを知れば知るほど、損害調査を担当する社員にとっては悲しみをこらえながらの仕事となるのです。
保険会社は、いま、まさに「戦争できる国」の片棒を担ぐ機関となろうとしており、そこで働く社員の精神的苦痛は、一層耐え難いものになってきています。

5 アジア太平洋戦争における痛切な反省
私は、ここで、かつての大戦における保険会社の痛切な歴史的反省に触れておきたいと思います。所謂「戦争保険」です。
アジア・太平洋戦争時の昭和17年1月には、戦闘行為による建物の火災・損壊を担保する「戦保険臨時措置法」に基づく任意保険の「空襲保険」が発売され、昭和19年4月には「戦時特殊損保険法」により普通火災保険に強制付帯とされることになりました。
戦局が転換し始めた昭和183月には、「戦争死亡傷害保険法」に基づき、日本国内外での戦闘為に伴う死亡・後遺症障害を担保する「戦争死亡傷害保険」を発売しました。それは「前線の戦闘激烈を極め、国内また敵の攻撃下に置かれようとも、十分にこれに対処できる態勢を整備し、戦時の国民生活に何らの不安もなく各々がその職域において、完全にその任務を遂行することが、この古の大戦争を勝ち抜くには極めて大切なこと」であり「総力戦の一環としての確乎不動の態勢を確するため」(内閣情報局)の保険販売でした。収入保険料が3,946万円に対して支払い保険金は19,167万円、保険料を超える部分はすべて国(税金)からの支出でした。
これらの歴史は、保険と戦争は全く相容れないものであることを示しています。「戦争保険」や「PKO」保険は、損害保険の原則が、偶然性を前提に、万が一の過失や災害に起因する損害を補償するものに対して、必然性を持った戦争や武力行使に起因する損害を補償するものであること、保険料も「大数の法則」から大きく逸脱し極めて安く設定されていることから、保険理論上も全く合理性を欠いた商品設計となっていることなど自明の理です。そして、そのことを十分わかっていながら業務として遂行しなければならない保険会社の社員、わたしたちの心情は、耐えがたい苦痛に見舞われます。社員は戦争に協力しているという罪悪感やトラウマからも逃れられないのです。

6 すべての元凶は新安保法制(戦争法)
 このような事態につながる新安保法制(戦争法)に、私は戦慄とともに強い憤りを覚えます。私の精神的苦痛は極限に達しています。戦争保険やPKO保険は、「戦争死亡傷害保険法」やPKO協力 法などを根拠に、いずれも政府の強い関与のもとで発売されてきました。
したがって、わたしたちの精神的苦痛の元凶である、現在の「PKO」保険を廃止若しくは販売を中止するには、「海外での戦争や武力行使など憲法違反の事故に起因する損害を補償する保険の販売はできない」として、政府の要求を拒否することが求められます。それは国民の利益とも一致し、大多数の国民の共感も得られるはずですが、そのためにも、司法の場で、改正国際平和協力法をはじめとする新安保法制法は、その内容は憲法第9条に違反し、立法手続きにおいても適格性を欠くものであり、憲法違反である、となんとしても判示していただきたいのです。

7  平和的生存権、人格権、憲法制定権侵害に対する、私の決意
会社で働く社員の働き甲斐や生き甲斐、喜び、幸せ、誇りをズタズタにするばかりか、耐え難い苦悩や苦痛、戦争に協力をしているという罪悪感を引き起こす新安保法制は、憲法第13条の働く者の個人としての尊厳や幸福追求権を明らかに侵害するものでり、とても容認することはできません。
私は、退職後も損害保険産業の健全な発展を願う損保人のひとりとして、PKO保険ならびに新安保法制法の廃止のために、残りの人生をかける決意であります。
新安保法制は、市民や多くの憲法学者たちの反対の意思を無視し、閣議決定だけで従来の政府解釈を一変させ「集団的自衛権の行使容認」を強行採決するという、政府の歴史的暴挙によって成立したものです。内容、制定過程いずれも、私にとって耐えがたき憤りと無念、そして悲しみを覚えるものでした。いまもその気持ちは癒えるものではありません。
海外での武力行使を容認したことにより、「日本は戦争をする国」と海外から評価され「テロ」の危険も高まりました。2020年東京オリンピックの競技会場となる「霞ケ関カンツリー倶楽部」「さいたまスーパーアリーナ」、「埼玉スタジアム2002」、「陸上自衛隊朝霞訓練場」等の近くに住む住民としては気が気ではなく強烈な不安を感じています。
私はこれまでの70年間、「われらは、各世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳う前文をはじめ、憲法の平和主義、基本的人権の尊重、国民主権を誇りとして生きてきました。これらの誇りや生きがいを一瞬にして破壊した新安保法制をとても容認することはできません。私は、市民のひとりとして、また「平和」を子どもや孫に継承しなければならない親のひとりとして、新安保法制法の廃止のために、残りの人生をかける決意でります。

2017年8月15日
     栗原 伸夫


2017年6月19日月曜日


    「共謀罪」の強行可決に抗議する 

                           蓮井 治
 
 この法案に対しては国民の間でも曽てない規模での反対や危惧の声が広がり、日弁連を始め全国52の弁護士会やペンクラブなどの民主団体・人権団体がこぞって警鐘を鳴らしたことは重く受け止めるべきです。しかし期待は裏切られ、あのような無法と暴挙・強硬手段で成立させてしまったことに先ずは強く抗議したいと思います。そしてアベ政権のもとでは、もはや民主主義は無くなり、多数の横暴だけがまかり通る政治になったと痛感しています。
 法案の内容についての詳細には触れませんが、その中の最大の問題点は、「何をしたら罪に問われるのか」がはっきりしていないことです。その点での判断は、すべて捜査機関に任されることになり、捜査対象が自由勝手に拡大されてしまう危険が大きいことです。環境保護団体や人権保護団体はもとより、私たちの「革新懇」や「9条の会」などの活動も捜査・処罰の対象にされかねません。ということは、「政府にとって都合の悪い」存在は全て対象にされるということであり、国民の日常生活のすべてが警察や自衛隊の「情報保全隊」(昔の「憲兵」と同じ軍隊の中の警察)などの捜査機関によって監視されることになります。
 国連の人権問題特別報告者、ケナタッチ教授が指摘した懸念の中心もこの点でした。アベ首相は、このケナタッチ報告で示された問題点に何ら答えないばかりか、「強く抗議」する声明を出しました。国際儀礼・ルールの片鱗もない対応で世界に恥をさらしました。
 私は戦中派の一人として1931年から始まった15年間のあの日本の大侵略戦争の頃を思い返えしています。戦争遂行の要として「治安維持法」(1925年制定)が猛威を振るい、戦争に反対する人、良心的な愛国者を片っ端から検束して裁判にも掛けずに忙殺しました。小林多喜二や三木清らがその犠牲となりました。この思想弾圧のために送検者は約7万6000人、逮捕者は数十万人に登り、国民の声を圧殺して侵略戦争への道を開いたのです。「共謀罪」は、まさに「治安維持法」の現代版です。
 政府は、この法案の説明の中で「ウソ」と「ゴマカシ」を積み重ねました。「一般人には関係ない」、「テロ防止のために不可欠」、「この法案がなければオリンピックが開けない」、「国際条約批准のために必要」などなど。アベ首相も金田法相も答弁不能の陥った事実がそれを証明しています。
 ちなみに、「テロ防止」というのであれば、そのための国際条約は13本ありますが、日本はこれら全ての条約締結を完了し、これに基づく国内法も整備されています。「共謀罪」など全く必要はないのです。それを隠し誤魔化すために、国会で過去3回も廃案となった「共謀罪法」を「テロ防止準備法」と看板を掛け替えをしました。「テロ防止」とうたえば国民が納得するという「浅智慧」が見え見えです。
 振り返ってみると、アベ政権のもとで2013年に「秘密保護法」、2015年に「戦争法」(安保法制)、2016年に「刑事訴訟法改定」(警察が簡単に盗聴ができる)、それに併せて今回の「共謀罪」は、正に「戦争をする国」づくりの一環であり、その最終仕上げには「憲法改悪」が待ち構えています。
 この法案の特徴として指摘したいのは、これが「アベ・ファシズム政権」の本質と「日米軍事同盟最優先」(国民の幸せや福祉は後回し)の政治姿勢がはっきりと国民の前に示されていることです。ですから平和と国民の幸せ、そして民主主義への復帰と尊重を願うなら、一刻も早く「アベ内閣」を退陣させることが緊急不可欠の課題であることを強調したいと思います。
 今、「森友・加計事件」の内容が明らかにされ、安倍総理による国政の私物化に対して国民の怒りが沸き起こり、政権は崩壊・転落の崖縁に立たされています。もう一押しの世論を高めることによって政権の完全追放を勝ち取りたいものです。

                      2017年6月15日 蓮井 治

2017年1月20日金曜日

年の初めに過去を振り返り、未来を展望する

「Ⅰ」 人類の良心を反映したポツダム宣言
 戦前の日本は、1931年から中国への侵略を開始し、満州国という傀儡国家をつくり上げ、1937年には中国本土に対して本格的な侵略を開始して、中国全土を席巻し、さらには東南アジア諸国へと侵略の矛先を広げ、対米戦争に突入し敗戦に至るまでの15年間、戦争に明け暮れた。結果は言うまでもなく、ポツダム宣言をj受諾して無条件降伏した。
 ポツダム宣言は、第2次世界大戦の末期に、ドイツのポツダムにおける連合国主要会議で取り決められた日本の降伏条件を盛り込んだ共同宣言であった。その中で、日本が進めた15年戦争は、「国民を欺瞞してミスリードし、世界征服(world conquest)を目指した侵略戦争であった・・」と認定した。この点は後でも触れるが、ここでは真実を述べたものであることを確認しておきたい。
 宣言の内容を要約して列挙すると、(1)軍隊の完全武装解除と再軍備・戦争勢力の永久禁止
(2)戦争犯罪人の処罰、(3)民主主義の徹底実施、特に思想・信条の自由と基本的人権の尊重、(4)これらの目的が達成され、民主的・平和的で責任ある政府が樹立された場合には、占領軍は直ちに撤収する、(5)1943年のカイロ宣言を遵守し、連合国は日本に対して戦勝の見返りとして領土拡張などの利益を求めない。 
 以上から分かるように、この宣言は、日本にとっては天恵とも言えるような内容で、戦後日本の進むべき方向を示す指針として申し分のないものであった。そのようなものが生み出されたのは、戦勝国の間でも戦争の悲惨さ戦後の荒廃を目のあたりにして非戦の願いと良心が呼び起され、宣言に反映したものと推測できる。
「Ⅱ」アメリカ帝国主義の登場
 戦後世界で唯一超大国にのし上がったアメリカは、その利点を最大限に利用して、世界制覇の野望を達成させるという典型的な帝国主義・侵略戦争に乗りだしたのである。それはポツダム宣言が、前記のように日本の15年戦争を「国民を欺瞞しミスリードして世界征服を目指した侵略戦争」と断定したものと全く同質・同類の侵略戦争であり、いわば「大アメリカ帝国」の構築宣言であった。
 アメリカが戦争準備のために「発明」し、取り入れたのが「集団的自衛権」であった。1947年に国連総会に出された国連憲章の原案は、平和理念を踏まえ、戦争違法化案としてほぼ完璧なものだった。ところがこれに対してアメリカが横槍を入れ、「集団的自衛権」を挿入することによって単独で行う戦争は違法だが、他国と組んで行う戦争ならば合法という巧妙な仕掛けが出来上がった。
 これにより人類が長年にわたり、その実現に心血を注いできた戦争違法化の理想は水泡に帰した。その後アメリカが強行した侵略戦争(ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争など)、ソ連のアフガニスタン侵略などは全て「集団的自衛権」の行使という名目で行われた。世界史の中でも特筆される汚点というべきだろう。(これらの戦争は集団的自衛権の行使には「国連加盟国が他から武力攻撃を受けた場合」よいう条件が付けられているが、それを守った例は1件もなく全て先制攻撃から始まった侵略戦争だった)。
 ここで湾岸戦争について付言しておきたい。フセイン・イラクがイラン・イラク戦争を経てアメリカなどから莫大な武器援助・支援を受けながら、兵力100万という中東最大の軍事大国となり、更には中東での覇権を確立しようとして、1990年に経済的に豊かな隣国のクウエートへの侵略を開始した。アメリカは、国連決議による平和的解決の可能性があったにもかかわらず、またフランスなどの和平交渉を拒否し、単独でイラクの侵略戦争を阻止するためと称して性急に武力行使に踏み出した。これが湾岸戦争であった。
 イラクのクウエートへの侵攻は間違いなく侵略戦争であり、これを押しとどめるアメリカの軍事行動は、正義の戦争として世界から非難を受けるどころか支持・歓迎されることはあっても非難されるることはないと読んだと思われる。
 しかしアメリカの真の狙いは全く別のところにあったのである。それは、イラン・イラク戦争の結果、先に述べたように、イラクは兵力100万の軍隊を有する軍事・覇権国家にのし上がっていた。中東に覇権を確立したいという野望を抱いていたアメリカにとってイラクの存在は大きな邪魔者以外の何物でもなく、何とかしてフセイン・イラクを中東から消し去ろうと図った。
 当時フセインがクウエートへの侵略を計画していることをアメリカは事前に察知し、その機会を利用してフセインを亡き者にすべく計略を立てたのである。その一環として、「もしイラクがクウエートに侵攻してもアメリカは手出しはしない」と思わせるように画策した。それにイラクがイランに仕掛けた侵略戦争(イラン・イラク戦争)では8年間にわたりアメリカがイラクを全面的に支援した実績もありフセインは「よもやクウエートに侵略を開始してもアメリカは動かない」と信じて疑わず、アメリカの本当の狙いは見抜くことができなかった。アメリカは、フセインの予想とは逆に即座に武力介入して、フセイン政権を打倒した。併せてフセイン個人の行方を徹底に捜索し、間髪を容れずに殺害した。生かしておけばアメリカにとって都合の悪いことをしゃべられることを恐れたのである。
 これが湾岸戦争の経過概要とその背景であり、アメリカは世界から評価されながら、野望を達成するという願ってもない成果を収めた。このように湾岸戦争は、形の上では正義の戦争を装っていたが、内実はアメリカによる単純な侵略行為をはるかに超える悪質かつ奸智に長けた侵略戦争であった。
 ここで湾岸戦争の真相に触れたのは、日本はアメリカとの深い同盟関係の中で最近のアメリカ占領軍の傲慢・不遜・勝手放題の振る舞いはエスカレートするばかりであり、このような状態が変わらなければ、わが国の国益は侵害される一方のまま持続する・・一刻も早くこの関係から脱却すべきだということを改めて強調したいと考えたたからである。
「Ⅲ」 ポツダム宣言を守らなかったアメリカ
 「ポツダム宣言の受諾」は国際法上の停戦条約が成立したことを意味するものであり、当事者双方が遵守の義務を負っている。しかしアメリカは、冒頭に記したポツダム宣言のすべての項目に違反した。(「戦争犯罪人の処罰」は、実施されたがA級戦犯の岸信介を無罪放免にするなど極めて不十分なものに終わった。その狙いは占領政策を円滑に実施する上で岸氏の働きを利用することだった。事実、彼は60年安保を完成させアメリカの期待通りに活躍した)
 ポツダム宣言違反の中での最重要ポイントは、第4項の「日本に民主的・平和的な政府が樹立された場合は、米占領軍は直ちに撤収する」に違反したことである。その違反は、1951年の講和条約成立後に「日米安保条約」を押し付けることにより実施に移された。その結果、戦後70年以上もの間、事実上の占領軍が居座り、日本の主権が蹂躙された状態が続いている。
 「日本の安全はアメリカに守ってもらっている」と考える人が意外に多いことに関連して、「在日アメリカ軍は、日本の安全を守る責務は与えられていない」ことを示す根拠として以下の事実を紹介したい。
 (1)1968年に米国務省がまとめた秘密文書には「日本の防衛のための在日米軍基地は一つもない」と明記
 (2)1970年1月26日の米上院外交・軍事委員会でジョンソン国務副次官が「我々には日本の防衛に関するいかなる地上・航空戦力も持たない。日本の防衛は、完全に日本の責任である。」と証言している。
 (3)1982年にワインバーガー国防長官は、「在日米軍は日本防衛の任務は与えられていない」と証言している。
 「日本はアメリカに守ってもらっている」というのは日米両政府合作の神話にすぎない。このような神話が持続することは、アメリカにとっては極めて大きな利益であり、好都合この上ない。アメリカにとっては、日本全土に米軍基地を置くという特権を得ながら、日本国民がそれに感謝しているとすれば、これに勝るメリットはないだろう。
 トランプ次期大統領が、「アメリカは日本を守っているのに、その戦費の負担は不十分だ。もっと負担を増やさなければ在日米軍は引き上げる」などと脅迫めいた言辞を弄しているが、「在日米軍が引き上げてくれれば大歓迎だ」と言えば、困るのはアメリカである。アメリカにとって日本に出撃基地を保有し米軍を滞在させているのは、かけがえのない国益だからである。もし仮にアメリカが日本の安全を守る責任を負っているとすれば、事の重大さに鑑みても協約書、条約などが存在していなければならないが、そのようなものは存在していない。日米安全保障条約にうたわれていると指摘する向きもあるが、その誤りを指摘したい。日米安保条約の第4条には、「・・日本国の安全‥に対する脅威が生じたときは・・いずれか一方の締約国の要請により協議する」と規定されているが、「協議」するだけは「保障」とはなりえない。また第5条では、いずれか一方に対する武力攻撃・・が自国の安全を危うくするものであることを認め、「各締約は・・自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と規定されているが、武力を伴う行動は日本の憲法9条に違反するので採用できない。従って安保条約第5条は、事実上空文化しているのである。
「Ⅳ」今後の課題
 (1)すでに述べたように、戦後の日米関係が常軌を逸しているのはアメリカがポツダム宣言を無視して、1951年に日本に安保条約を押し付けたことに根本の原因がある。当時、日本はまだ事実上軍事占領下にあり、拒否できる立場になかった。そのことだけでも日米安保条約は無効なのである。
 (2)私たちは、ポツダム宣言受諾という戦争終結の原点に戻り、改めて日米安保条約の破棄を提起しよう。それは同宣言を受諾したわが国の当然の権利でもある。その権利を正当に行使することに反対したり拒否したりする権利は存在しない。破棄することによって日本は戦後初めての真の独立と国家主権を回復するとともに、憲法9条を体現した平和国家に生まれ変わる。平穏で公害・騒音のない環境も取り戻すことができる。その手続きとしては、条約10条の規定に従って破棄する旨の通告を発すれば、それだけで破棄は有効に成立する。原則論で言えば、「協議したり、交渉する必要もない」のである。1年後にアメリカ軍は全て撤収し、在日米軍基地問題は、沖縄基地問題も含め一挙に全面解決する。
 (3)そうなればアメリカは、これまでのように在日米軍基地を利用して海外に出動し戦争を行うことは不可能になる。それ自体世界の平和を拡大する上で計り知れない貢献となる。
 最後に一言付言すれば、トランプ政権登場は要注意である。不当な要求を突きつけてくる危険が大きい上に、安倍政権が唯々諾々と受け入れる危険も大きいからである。
 トランプ、安倍の両氏は共にウルトラ右翼という点で相互に気脈を通ずる立場にある。安倍総理はトランプ氏が大統領選で勝利した直後に彼のところに駆け付けたのは、彼がトランプ氏の登場に祝意と共感の意を伝えるとともに相互の考え方の共通点を確認し、日米軍事同盟の強化について合意することを伝えるためだったと推測され、安倍総理の卑屈な姿勢が読み取れる。
 今年こそ、国民の総意を盛り上げ、日米安保条約の廃棄を勝ち取る年にしたいものと強く願っている。

                2017年1月1日         蓮井 治